2016年9月30日金曜日

不十分な環境に生きる

我々は、まったく不十分な環境のもとで生きている。
けれど、もっと不十分な環境のもとで生きている人もいる。

東京大学教授の福島智(さとし)氏は、3歳で右目を、9歳で左目を失明し、全盲になった。
生来が楽天的という福島氏は、視力を失っても音の世界がある、耳を使えば外の世界とつながることができると考え、音楽やスポーツ中継や落語に夢中になっていた。

だが、14歳から右耳が聞こえなくなり、18歳、高校二年生のときには残された左耳も聞こえなくなった。
全盲聾。
まるで、「真っ暗な真空の宇宙空間に、ただ一人で浮かんでいる」感じだという。
なぜぼくだけこんなに苦しまなければならないのか。これから先、ぼくはどうやって生きていけばよいのか。
不安、恐怖、絶望。懊悩の日々が続いた。

そんなある日。母親の令子さんが福島さんの指を点字タイプライターのキーに見立て、
「さとしわかるか」と打った。
「ああ、わかるで」と福島さんは答えた。

母親のこの指点字は壮大な転機となった。
福島さんは真っ暗な宇宙空間から人間の世界に戻ってきたのだ。
その時の感動を福島さんはこう詩に綴っている。


指先の宇宙

ぼくが光と音を失ったとき
そこにはことばがなかった
そして世界がなかった

ぼくは闇と静寂の中でただ一人
ことばをなくして座っていた

ぼくの指にきみの指が触れたとき
そこにことばが生まれた
ことばは光を放ちメロディーを呼び戻した

ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき
そこに新たな宇宙が生まれ
ぼくは再び世界を発見した

コミュニケーションはぼくの命
ぼくの命はいつもことばとともにある
指先の宇宙で紡ぎ出されたことばとともに


我々は、まったく不十分な環境のもとで生きている。
けれど、福島氏にはそれに対する被害者意識がみじんもない。
被害者意識で生きている人は、何事であれ人のせいにする。
人のせいにしている人に難関は越えられない。人生は開けない。
だから我々は、たとえ不十分な環境であろうと、いや、不十分な環境であればこそ、被害者意識で生きてはいけないのだと思う。

(「致知」2016年6月号より編集)

2016年9月24日土曜日

天職に気づく

天職というのは、探すものかもしれませんし、気づくものかもしれません。
案外と人は無意識のうちに天職を選んでいて、けれど選んだことに気づいていないことも多いように思います。

だから天職が見つかるかどうかを気にすることよりも、それが天職だと気づけるかどうかを気にしたほうがよい。

何よりも大切なのは、気づける感覚を磨くことです。

2016年9月23日金曜日

知を育む(はぐくむ)とは、どういうことか

知の吸収と栄養の吸収は似ている。
そもそも、知とは頭の栄養なのだから、似ているのは当然だ。

たとえば学者が研究してエッセンスを抽出した理論本から学ぶのは、サプリメントで栄養を摂ろうとするのに似ている。
効率よく、不純物が混じっていない純粋な栄養素がとれる。

では、栄養のすべてをサプリメントに頼る食生活は、「正しい」か?
それで、「人」は育つのだろうか。
知識のすべてを学者のエッセンス本に頼る学習は、「正しい」か?
それで、「人」は育つのだろうか。

一方で、自然食から栄養を得るのは、知で言えば体験や疑似体験(事例研究、ケーススタディ)から学ぶことである。
それは「効率的」ではないかもしれない。
けれどそれは、「本物」かそれに近いものではある。

サプリメントも有効であろうし必要でもあろうと思う。
けれど、それに依存する生き方や育ち方をしていないか。
便利な時代だからこそ、我々は注意しなければならない。