体験した人なら分かるでしょうが、マインドフルネスは、以下と同じ「感覚」だと思います。
・スポーツでいう「ゾーンに入った」状態
・心理学でいう「フロー状態」
・禅でいう「無の境地」
・「明鏡止水」の状態
また、柳生新陰流(剣術)には「水月の法」といって、相手の気の動きを察知する術があるそうですが、これも用法を聞くと、マインドフルネスの応用と考えられます。
上記はどれ一つとして、言葉で理解できるものではありません。
修練の長い繰り返しの末に、体で理解するものです。
マインドフルネスとは何か。
本当に知りたい人は、悪いことは言わない、体で知る努力をすべきです。
なぜならマインドフルネスとは一種の「体感」だからです。
たとえば「しみじみした感じ」を言葉で十分に説明することは不可能なように、
塩をなめたことのない人が、「塩味」を言葉で理解することも不可能なように、
感覚は言葉では十分な説明も理解もできないので。
哲学の開祖ともいうべきギリシャの哲人ソクラテスは、「人はただ生きるだけではだめで、よりよく生きなければならない」と言いました。 効率的な稼ぎ方や、効果的な出世の仕方といった技術を身につけることも大切ですが、正しい生き方とは何か、真善美とは何かといった、哲学を身につけることも人として生きるために重要です。 このブログでは、日々の気づきのかけらを通じ、現代の哲学を考えていきたいと思います。
2016年4月18日月曜日
2016年4月3日日曜日
痛みは、苦しみではない
ミドルリーダーは、どのような感覚で生きているか。
それは一人、体をがんじがらめに縛られて、大海を渡れと突き落とされるのに似ている。
手足を自由に動かすこともできない。なのに、陸の上で濡れることなく冷然と見ている人たちからは「遅いな」と言われる。
大海を渡るどころか自分の体はどんどん海底へと沈んでゆく。けれど、誰も見ているだけで助けようとはそぶりも見せない。
苦しくて、寂しくて、水の中なのに涙が出ているのがわかる。
そんな状況で、君ならどうするか。
助けは来ない、絶望とどう向き合うか。
客観的に救われない状況で、自分を支えることはできるのか?
たとえばジャック・マイヨールのように、水深100メートルまで素潜りする人は、どういう感覚でいるのだろうか。
自ら好んで、あんな苦しいはずのことをする人は、どういう精神構造をしているのだろうか。
おそらくそういう人は、「ここが、自分のいるべき本来の場所だ」と思っているのかもしれない。
魚が水の中にいるように、自分はここにいたい、ここにいるのが好きだと感じているのかもしれない。
普通の人にとって、たった一人で沈んでいくことは苦痛である。痛くて、苦しい。
けれどある種の人には、痛みは苦しみではないのである。
痛いけど、苦しくはない。
そういう境地に至るには、今ここにいる自分こそ、本来の自分なのだと思えることが鍵なのかもしれない。
それは一人、体をがんじがらめに縛られて、大海を渡れと突き落とされるのに似ている。
手足を自由に動かすこともできない。なのに、陸の上で濡れることなく冷然と見ている人たちからは「遅いな」と言われる。
大海を渡るどころか自分の体はどんどん海底へと沈んでゆく。けれど、誰も見ているだけで助けようとはそぶりも見せない。
苦しくて、寂しくて、水の中なのに涙が出ているのがわかる。
そんな状況で、君ならどうするか。
助けは来ない、絶望とどう向き合うか。
客観的に救われない状況で、自分を支えることはできるのか?
たとえばジャック・マイヨールのように、水深100メートルまで素潜りする人は、どういう感覚でいるのだろうか。
自ら好んで、あんな苦しいはずのことをする人は、どういう精神構造をしているのだろうか。
おそらくそういう人は、「ここが、自分のいるべき本来の場所だ」と思っているのかもしれない。
魚が水の中にいるように、自分はここにいたい、ここにいるのが好きだと感じているのかもしれない。
普通の人にとって、たった一人で沈んでいくことは苦痛である。痛くて、苦しい。
けれどある種の人には、痛みは苦しみではないのである。
痛いけど、苦しくはない。
そういう境地に至るには、今ここにいる自分こそ、本来の自分なのだと思えることが鍵なのかもしれない。
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